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義足の跳人マルクス・レームさんの快挙と差別主義者の主張
差別主義者の主張は理解できない
こんにちは。
障害者差別が大嫌いなアイナメチヌオす。
平昌オリンピックで大盛り上がりの中、今日はパラリンピックと差別について書かせて頂きます。
早速ですがみなさん。
2016年に、ドイツのマルクス・レームさんという義足の走り幅跳びの選手が世界選手権で健常者の世界記録を抜いたのをご存知でしょうか。
有名なお話なので知っている方は多いと思いますが、もしこの記事で初めて知った人はビックリじゃないですか?
だって義足なのに健常者の人よりも飛べるんですよ!?
ぼくがこのニュースを初めて見た時も、とても驚いて、とても嬉しかったのを覚えています。
“いよいよそういう時代になったか!!”
と思い、興奮したものです。
しかしですよ。
その直後、いろいろな論争が起きたのです。
論争と言うか、ケチをつけるバカな人たちが大勢いたんですよね。
例えば、
- 義足は幅跳びに有利に働くので、世界記録にするのはおかしい。
- 世界記録は健常者が身体ひとつでどこまでできるかを競い合うもので、道具を使ってはいけない。
- 義足を使うのは不平等だ。
という感じで。
・・・・・。
どうですか皆さん。
呆れますよね。
どこまで考えの足りない方たちなのかと。
正直ただ無視すればいいような雑音でしかないように思えますが、実際はこういった至らない考えの方も多く、またそういう人たちはバカみたいに騒ぐので、ご本人も大変だったと思います。
この論争についての詳細やマルクス・レームさん本人の素晴らしさはGoogle先生に聞けばたくさん教えてくれるので、気になる方はぜひググってみてください。
今日の記事は、このマルクス・レームさんの件の詳細を伝えるためのものではありません。
ぼくがこの記事で伝えたいのは、
こんなバカな論争が起きるような世界ではダメ!
ということです。
ぼくはエッセイやブログを書くことで、少しでも世の中が良くなったり、一人でもいいから幸せになってくれたらいいなと思っています。
だから今日は、そんな差別を助長する意見を真っ向から否定し、世界をより平和に、より幸せにするために共感してくれる人が出てきたらいいなーと思いながら記事を書かせて頂きます。
障害=個性であり、その個性の不便さを補うための道具が義足なのである。
まず。
別の記事でも書いていますが、障害は個性です。
少なくともぼくは本気でそう思っています。
背が高いのも個性。
足が遅いのも個性。
片足が無いのも個性。
と言っても、そうですねと理解して頂ける人は少ないかもしれませんね。
でもじゃあ聞きますが、
例えば、”背が高い男の子が好み♡” と謳っている女の子。
もし身長4mの人が合コンに来たらどう思いますか?
確かに、きっとその女の子は4mの人の事を、“普通の人” とは思わないでしょうね。
でも!
じゃあ、3mは? 2.2mは?
どこまで個性でどこから異常なの?
足の遅さも同じ。
度を越えたら異常とみなされるけど、どこが境界線かはきっと人によって違うんでしょう。
でもその考えがそもそも間違ってるんです。
身長4mだろうが時速10mで歩こうが、”背が高いという個性” 、”足が遅いという個性” なんです。
もちろん、マルクス・レームさんの足も個性です。
足が短い人と同じようなもんですね。
ただ確かに、足が無い人と足が短い人とでは、不便さには雲泥の差があると思います。
義足とは、単純にその不便さを補うためのモノなのです。
不便だから道具を使うんです。
外国人が日本に来た時、箸をうまく使えなくて不便だからスプーンを使う人も多いと思いますが、これは当然ですよね。
だって不便なんだもん。
それを踏まえて義足の事を考えてみましょうよ。
そう、ただ不便だから、義足を使っているんです。
そしてそう考えるとですよ。
冒頭で書いたマルクス・レームさんの件についても単純に疑問が出てきますよね。
なんで不便を補うための道具である義足が、普通の足より便利だといけないの?
という疑問です。
だって、箸が苦手な人は箸じゃ不便だからスプーン使ってるんじゃん。
その人にとってはスプーンの方が便利なんじゃん。
でも、“スプーンみたいな便利な道具を使って日本人より楽に早く食べるなんてけしからん!!” なんて言う人を見かけたら結構ひくでしょう。
でもじゃあ、
それなのになんで義足の人は、普通の人より便利な義足を使ってはいけないの?
と思ってしまうんです。
百歩譲ってアイナメチヌオくんの主張を理解しよう。それで結局、パラリンピックはどうなるべきなの?
そう。
やっとここからが本題ですね。
結論から言ってしまいますが、ぼくはやっぱり、
パラリンピックは義足などを駆使して全力で戦う大会であるべきじゃないのかな、と思っています。
“それじゃ今までと一緒じゃん!” と言われそうですが、全然違います。
別に、自分の足が遅くて不便だと思う人は自分から義足を身に着けてパラリンピックで競えばいいんです。
だって足があろうがなかろうが、それぞれ持っている個性の中で不便を感じているんだから、その不便さを補えばいいんです。
“キミの不便さは障害から来てるものだから、義足付けてパラリンピックに出てもいいよ。“
“キミの不便さは障害じゃないから、義足付けてパラリンピックに出るなんてダメに決まってるじゃん。”
なんですかコレは?
差別そのものじゃないですか。
どうしても障害者かどうかで区別したいんですね、と思ってしまいますよ。
ぼくの理想は、
みんなができる限りの全力を出して戦う大会がパラリンピック、カラダひとつで競い合う大会がオリンピックになればいい!
と思っています。
そうすれば、健常者と障害者の区別がなくなります。
区別をなくす事こそ、差別をなくす第一歩なのです。
それってホントにうまくいくの? デメリットは?
そう。
これで万事解決とは思っていません。
この案にはもちろんデメリットもあります。
それは、パラリンピックが実質サイボーグ同士の競い合いになりかねないという点です。
ぼく個人的にはそれでもいいと思っているのですが、きっと世論的には反対派も多くいますよね。
なにせ、金持ちほど有利じゃないか!
という批判が容易に想像できるからです。
でも、実はそれこそがわたしの狙いなのです。
だって、批判の方向性がソチラ(金持ちかどうか)に向いた時に初めて元健常者と元障害者の垣根がなくなり、同じ土俵で勝負できることになるんだもの。
その後に出てくる金持ちかどうかの格差なんて、そんなものは知りません。
というか、サイボーグ化までして個人の力全てを出して競うんだから金を稼ぐ能力も含めて競えばいいと思います。
金を稼げずに良い道具を揃えられなかった時点で実力的に負けなんです。
わたしはそれくらい思い切ったことをやってでも、障害者差別を無くしていけたらなーと、真剣に考えております。
さてさて長くなってしまいましたが、ご賛同頂けましたでしょうか?
文句を言いたい方も批判したい方も大勢いるでしょう。
でも皆さん。
しばらくはネットサーフィンをやめてオリンピック、パラリンピックを応援しましょう!!
平和の祭典が平和に終わり、身の回りが平和でありますように。





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